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やまがみてるお blog   意識の中心―ほんとうの自分―の見つけ方

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「意識化している自分」という定点を見つける (1/3) 「いまここ」の自分を意識化したまま、日常をすごす練習

04-06(土)02時41分
こんにちは、やまがみてるおです。

ご訪問ありがとうございます。




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「『いまここ』を意識します」

「『いまここ』の自分の状態」が「意識化」されます。




「パソコンを見ている自分」に「意識を向けます」→

「いま、パソコンを見ている自分」が「意識化」されます。→

「意識化している自分」が、「パソコンを見ていることを『意識』」します。




私たちは、「『いまここ』の自分を意識化したまま」、

「日常を観察する」練習をしています。




日常とは、「自分のまわりで起こる出来事」や

「それに対する反応」のことです。




それに対する反応とは、

起こった出来事に対する「思考」のことです。




「思考」とは、それぞれの過去のデータに照らしあわされて

導きだされた「判断」や「決めつけ」のことです。




「自分のまわりで起こる出来事」に対する

「思考」―「判断」や「決めつけ」―は、

最初、潜在意識の奥深くで起こります。




それがしだいに浮上してきます。




この浮上の過程のどこかで、

私たちはその「思考」―「判断」や「決めつけ」―に

対する反応をおこないます。




出来事に対する反応として、潜在意識の奥深くで誕生した、

「思考」―「判断」や「決めつけ」―は、

しだいに浮上しながら、その影響力を増大させていきます。




これが、単なる過去のデータに基づいた反応であることに目を向けないまま、

私たちはこの「思考」―「判断」や「決めつけ」―のままに反応しています。




「思考観察」とは、この「出来事に対する反応」が起こったときに、

できるだけ早い段階で気づく練習です。




早い段階で気づくことを目指す理由は、

早いほどに、その影響力が弱いからです。




けれども、私たちには日常的に無意識に生きる習慣が身についているため、

おおむね、つぎのようなことを経験します。




自分のまわりで何かの出来事が起こる。

潜在意識の奥深くで、

それに対する「思考」―「判断」や「決めつけ」―が起こる。

潜在意識の下層から、意識にのぼるまで、

しだいにその「判断」や「決めつけ」が浮上してくる。




この浮上の過程のどこかで、私たちは

この「思考」―「判断」や「決めつけ」―に対する反応をおこなう。




「判断」や「決めつけ」に対する反応とは、

A:「判断」や「決めつけ」のいうがままの反応を、行動に移す。

もしくは、

B:その行動を抑圧する、のどちらかです。




出来事に対する「思考」―「判断」や「決めつけ」―が起こり、

この「判断」や「決めつけ」のとおりの反応を、

私たちは唯一の選択肢だと盲信し、

みずからの意思で選びとっていることになるのですが、

この過程が無意識に起こっているため、

自分で選んだということにさえも気がついていません。




「思考観察」は、

この「判断」や「決めつけ」が、

本当に、信頼する必要があるのか、

それとも、そうではないのかを、

自分の目で確認するための方法の一つです。




「判断」や「決めつけ」の判断材料となっているものが、

過去の経験の記憶です。




過去の経験の記憶は、私たち個人の意識、視点をとおして

経験されたものの記憶であるため、極端な制限を受けています。

(極端な制限を受けている理由とその説明は

『「いまここ」にさとりを選択する生きかた』第2章をご参照ください。

ここではスペースの都合上、割愛させていただきます)




この制限を受けた「判断」や「決めつけ」の影響を受けた行動によって、

私たちの日常の行動は、自分たちの気づかないところで影響を受けています。




このため、私たち一人ひとりのもともともっている、

才能や能力が、閉ざされています。




*Information*


*『「さとり意識」発見ワークショップ』を開催いたします。

「意識化している自分」という定点を見つけることに重点をおいた、

ワーク中心のワークショップになります。

◆大阪(2013年4月27日)

◆東京(2013年5月26日)

詳細は、こちら




*『「いまここ」にさとりを選択する生きかた』ナチュラルスピリット刊、好評発売中!






*ワンクリック、応援おねがいします。

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コメント:

やまがみさん前回のコメントありがとうございました。

私は感情の変化をサインに「意識」を思い出すことが多いので、感情が起ってくるまでのプロセスを見落としていたようですね。

感情が起ったらその感情に意識を向けてればいいと思っていましたが、確かに感情が起るということはその前に、「自分のまわりで起こる出来事」に「判断」や「決めつけ」をしてしまっているということになるますね。

相手のメールの返信がすぐに返ってこないだけで、嫌われてると思うのは確かに信頼に値しない判断ですね。

常に思考を観察し続ける必要性を改めて認識しました。
2013/04/06(土) 06:37:08 |URL|ユウキ #- [編集]
僭越ながら…
僭越ながら、皆様のご参考になればと思い、記載させて頂きます。
お許し下さい。

「『観察する修行とは二元的ではないのですか?なぜなら自分が観察するとき、自分とは別のものを観察しているからです』…
けれども実際、それは二元的ではありません。
観察者は「空」です。
別の観察者がいるのではなく、観察するという行為だけがあるのです。
聞いている者は誰もいません。
ただ聞こえているのです。
見る者は誰もいません。ただ見ているのです。
…真剣に修行に励むならば、観察者も、観察されるものも、「空」であることがわかります。
この段階で観察者(または目撃者)は消えるのです。
「空」が「空」を見るとき、何があるのでしょうか?
そこには「人生の神秘」が存在しています。
何かから分離している者は誰もいません。
そのとき、人は愛や慈悲に満ちた存在になり、
ただ人生そのものを生きるのです。」以上。

シャーロット・浄光・ベック著『エブリデイ禅』より…

勝手な投稿、大変失礼いたしました。合掌 平井
2013/04/06(土) 07:20:29 |URL|平井ケンタ #- [編集]
ユウキさんへ
こんにちは。

> 私は感情の変化をサインに「意識」を思い出すことが多いので、感情が起ってくるまでのプロセスを見落としていたようですね。

プロセスを気にする必要はなく、気づいたら、オッケーです。

感情をサインにして、どこかで気づいたら、それで感情からはなれることができます。

「気づいたときが遅かった(「ノー」という反応、判断、決めつけ)」というのがさらなる「思考」であることに気づきたいわけです。

> 感情が起ったらその感情に意識を向けてればいいと思っていましたが、確かに感情が起るということはその前に、「自分のまわりで起こる出来事」に「判断」や「決めつけ」をしてしまっているということになるますね。

感情は、思考(無意識も含む)によって起こります。

> 常に思考を観察し続ける必要性を改めて認識しました。

これを怠ることで、私たちは無意識になり、それゆえ、思考や感情と同一化し、それに苦しめられます。
2013/04/06(土) 12:43:21 |URL|やまがみてるお #- [編集]
晴耕雨読
やまがみさま、

一週間ぶりに、東京から京都に帰ってきました。帰ったらとたん、一週間前の残像が一瞬起こりましたが、そこで、思考の比較、否定、決めつけが浮上してきました。なにもないから、同じ場所かと決めつけが入り、そこで盆栽の新芽萌芽に気づく、潜在が顕在しはじめている、、、まったく違う日常、一瞬にして静寂に包まれ、光に満ちる、、、二十年熟成で浮上した今ここは、沁みます。あれ?ナルシスト入ってる?
2013/04/06(土) 14:21:43 |URL|Green bird #Pg6Ch65A [編集]
平井ケンタさんへ
こんにちは。

シャーロット・浄光・ベック著『エブリデイ禅』よりのご引用、ありがとうございます。

> …真剣に修行に励むならば、観察者も、観察されるものも、「空」であることがわかります。
> この段階で観察者(または目撃者)は消えるのです。
> 「空」が「空」を見るとき、何があるのでしょうか?
> そこには「人生の神秘」が存在しています。
> 何かから分離している者は誰もいません。
> そのとき、人は愛や慈悲に満ちた存在になり、
> ただ人生そのものを生きるのです。

シャーロット・浄光・ベックさんの上記のおことば、
私も自分の体験から、同意いたします。

けれども私たちは、突然「空」に至るわけではありません。

シャーロット・浄光・ベックさんもおっしゃられているとおり、「ある段階」で「空」に至るわけです。

私は、シャーロット・浄光・ベックさんのおっしゃられている「この段階」に至るまでの過程で、一度「気づいている自分」という「定点」の獲得が必要だと主張しています。

この必要な過程をとおらなければ、いつまでたっても「空」は体験されないでしょう。

私たちは無意識だからです。

無意識であるかぎり、「空」体験も、無意識にすぎさっていきます。無意識なのですから。

ですから、「空」に気づく「視点」(「意識している自分」、あらゆることに「気づくことのできる視点」)が安定化される必要があると私はお伝えしています。

空に対する、この誤解(「私はいない。私はいない。あるのは『空』だけである」ということばのもたらす誤解)が、私たちを「悟り」(じっさいの「空」体験〔無意識からの目覚め〕)から遠ざけていると私は危惧しているのです。

(おそらく、シャーロット・浄光・ベックさん自身も、「この段階」ということばを使われていますので、「それ以前の段階」にも言及されているのではないかとは思いますが)

「空」が体験されない理由は、私たちが世界に対して、過去の経験からつくられた「思考」や「観念」を無意識に投影し、その投影された世界を見ているからです。

(世界はじっさいは「空」なのですから、無意識から意識化されることによって、思考や観念の投影がなくなれば、「空」が残ります。けれどもこれは、「意識をしている自分」「気づいている自分」が確立されてから、数年をかけてゆっくりと起こります。このことは、私のブログでも、著書でも解説しています。)

無意識に、思考や観念を世界に投影しているために、「空」は見えなくなっています。

無意識に生きているかぎり、「意識的な体験」は起こりません。

悟りが起こらない理由は、私たちが「無意識」だからなのです。

「無意識」からの目覚めが起こるためには、一度、「気づいている自分」という「定点」の獲得が必要だと私はお伝えしています。

私たちはそれ(「空」)を「意識することができている自分」が「体験して」はじめて、意識することができるからです。

「意識している自分」が安定化すると、真実の世界が目撃され、それからゆっくりとした時間をかけて、そこには自分がいないことがしだいにわかっていきます。

そうして、見るものは誰もおらず、ただ「空」だけが存在していることが体験されます。

これが、シャーロット・浄光・ベックさんのおっしゃられている、「空の段階」です。

「空の段階」にいたると、観察者不在を体験し、愛が残ります。

「無意識」から「意識化」を経ずに、「無意識のまま」では、それは誰にも意識されません。
2013/04/06(土) 14:25:55 |URL|やまがみてるお #- [編集]
Green birdさんへ
こんにちは。

大阪も雨につつまれています。

気づいている視点を維持されてください。

> 一週間前の残像が一瞬起こりましたが、そこで、思考の比較、否定、決めつけが浮上してきました。

気づいている視点で、それが思考であることに気づきつづけてください。

> なにもないから、同じ場所かと決めつけが入り、そこで盆栽の新芽萌芽に気づく、潜在が顕在しはじめている、、、まったく違う日常、一瞬にして静寂に包まれ、光に満ちる、、、二十年熟成で浮上した今ここは、沁みます。

それもまた、思考であり、それに気づいている自分に意識を向けて、それに気づきます。
2013/04/06(土) 14:36:33 |URL|やまがみてるお #- [編集]
管理人のみ閲覧できます
このコメントは管理人のみ閲覧できます
2013/04/07(日) 03:41:47 || # [編集]
些細な思考
お世話になります。瞑想中に浮かぶような些細な思考や感情は、日常生活で意識されません。
潜在意識からわきあがるような些細な思考は、思い出して気がつくことは、しなくていいでしょうか。先程、コメントしましたが、些細な思考をくまなく探し出す必要はありますか。
本とブログでワークし始めました。
2013/04/07(日) 05:09:00 |URL|Peace #Lis.ZDmI [編集]
Peaceさんへ
こんにちは。

「思考の観察」をはじめると、私たちは、今度は「思考観察すること」を思考にして、自分をコントロールしようとしはじめます。

「思考に気づかなければならない」

「思考の観察を忘れてはならない」

「完璧に、思考に、気づかなければならない」

これらもすべて思考です。


「思考の観察」とは、これらもすべて思考であることに気づくことをいっています。

「思考の観察」とは、「思考の観察をすること」をいっているのではなく、

それらが、「思考にすぎないことに、気づく」ことをいっています。


けれども私たちには、思考に同一化する習慣が身についているために、

今度はこの「思考の観察をしなければならない」という思考と同一化し、

それらが「思考にすぎず、ただ気づくだけでいい」ということを忘れていきます。

> 潜在意識からわきあがるような些細な思考は、思い出して気がつくことは、しなくていいでしょうか。

これまで気づいていなかった無意識の思考にPeaceさんが気づくことができたということは、

これまでは無意識だった思考が意識化された証拠になります。

無意識下の思考、潜在意識下の思考も、

「思考の観察」に慣れていくにしたがって、おなじようにして、より気づけるようになっていきます。


「些細な思考に気づかなければならない」といってPeaceさんを刺激しているのも、「思考」の策略です。

「些細な思考に気づかなければならない」という「思考」が

Peaceさんを「古い習慣」に連れ戻そうとしているのです。


それらさえも、思考にすぎないことに、「ただ気づく」ようにしてください。


「思考に気づかなければならない」

「思考の観察を忘れてはならない」

「完璧に、思考に、気づかなければならない」

「より些細な思考に気づかなければならない」

これらはすべて思考です。


それらが思考であることに気づき、抵抗しません。


思考に気づき、気づいている自分とともにあるようにします。


「完璧に、思考に、無理して気をつける必要はないでしょうか」と

感じているということは、それは思考との同一化です。


このとき「思考に気づいている」ということは、

「完璧に、思考に、無理して気をつける必要はないのだろうか」と

疑問に感じている(思考している)自分に気づいているということです。


「完璧に、思考に、無理して気をつける必要はないでしょうか」と

感じているということは、それは思考に巻き込まれているということです。


「完璧に、思考に、無理して気をつける必要はないでしょうか」=自分になっています。


思考に気づいている状態とは、

「完璧に、思考に、無理して気をつける必要はないでしょうか」と

思考している自分に気づき、それが「思考にすきない」ということに気づいている状態をいっています。


それが、「思考にすぎない」ことに気づいていないとき、私たちは、

「私は思考を観察している」という思考と同一化しています。

「思考に気づいているふりをしている『思考』」と同一化しています。


「完璧に、思考に、無理して気をつける必要はないでしょうか」と

思考している自分に気づき、それが「思考にすきない」ことに気づいていたら私たちは、

それは「思考にすぎない」ゆえに、

したがう必要なんてまったくないことがわかっていることになりますものね。


こうして、自分でわかることによって、思考の呪縛から解放されていきます。


まずは、「気づいている自分」が必要なのです。


思考からはなれた視点、思考に気づいている視点(定点)を安定化させる必要があります。
2013/04/07(日) 14:58:43 |URL|やまがみてるお #- [編集]
お礼
思考との同一化のお話をいただきとてもありがとうございました。眼が覚めました。これも思考ですね(笑)
2013/04/07(日) 15:31:56 |URL|Peace #Lis.ZDmI [編集]
はじめまして。
やまがみさんこんにちわ。
初めてコメントさせていただきます。


本名では無く、ブログネームでのコメントで失礼します。



私はかれこれ10年近く、自身の思考に煽られて呑まれて人間関係を何度も自分で壊してしまって壊した後に後悔と孤独感に苛まれると言う事を繰り返してきました。



先日も同じ事を繰り返してしまい、そんな自分にウンザリしてしまっています。


思考は思考に過ぎないと気付く視点、これができずにすぐに自分の思考に呑まれてしまい、それができる人達を思考からの苦しみから解放された人達を羨んではそこでの自分の居心地が悪くなって自分で壊してしまう。



自分の居場所なんて無い。楽しい人は楽しい人達だけで楽しくやってればいい。自分はその中には絶対に入れない。



自分にはできない。彼らのようにはなれない。このまま同じ事を繰り返すだけ。



彼らと自分を比較して辛くなるだけならいっそのこと自分が消えればいい。



自分は必要とされないし、なんの能力も無い。無能な自分など存在意義など何一つない。



もう変われた人達を見るのはウンザリだ。


でもそれ以上にそんなどうしようもない自分にウンザリしてます。



もう自分自身に振り回されたくない。




そんな折、やまがみさんのブログを知りまして、やまがみさんの著書“「いまここ」にさとりを選択する生きかた”と合わせて読ませていただいております。





また人間関係もほとんどリセットした状態。そこからまた再スタート。



10年前から同じ事を繰り返してしまう自分に嫌気がさすと同時に、10年前とほとんど変わらない状況にまた戻ったのだと感じると、疲れてしまいます。



が、唯一異なるのはそこから自身の思考に気付くこと、思考との同一化を止めることに想いが変わっている点が異なる点だと思っています。



ただ、思考との適切な距離を取りたい。思考の奴隷でいたくないという衝動の方が強いです。



不純な動機かも知れません。嫌だから何かを求めると言うのは。



思考が襲ってきても我慢すればいいのかも知れません。自身のやり場の無い感情を我慢すれば表面上は上手く行くのかも知れません。



でも、私にはそれが耐えられなかった。



次から次に、感情的になった場面を思い出しては自身の感情を煽ってしまう。



怒ってはいけない、そんな気持ちになってはいけないと心に鍵をかけ、見ない振りを続けていてもどこかで爆発してしまう。



爆発した後で感じる孤独と後悔。



孤独と後悔感じていつまでも被害者面、可哀そうな自分をやりたいだけだと自分に言い聞かせるものの、本質的な事に気付けていないのか、他人とまた比較しては至らない無能な自分に嫌気がさす。そして、同じ破壊衝動に駆られていく。



そんな自分をもう終わりにしたい。



だからこそ、このタイミングでやまがみさんのブログに出会えたのだと思いたいです。



変えたいと言うのもまた、思考なのでしょうが、思考観察をしようと、思考との同一化からもう卒業しようと今回ほど思ったことは無いかも知れません。それだけ、もう同じ事の繰り返しから抜け出したいと思っています。



また、思考に呑まれてしまうのではないか、気付いたらいつもの日常に引き込まれて忘れてしまうのではないかという不安ももちろんありますし、実際、そういう時もあるでしょう。



そのため、以前、毎日ブログを更新していたので、その経過などをブログで記録して行くのもいいのではないかと思い、またブログを開設して見ました。



ブログか何かにアウトプットすることで習慣化できるのではないかと考えたのです。



ですが、それだと今度は「思考を観察する」という思考に取り込まれてしまうだけではないかという不安もあります。



しかし、ブログにやコメントにてアウトプットされている方もいるようで、ブログでのアウトプットもありかなと考えています。



もう、今までの「自分」から卒業します。



この人だからできた、あの人だからできた。だから自分にはムリ。自分はそういう運命なんだとまた拗ねて籠りたくない。



長々と取り留めの無いコメントで申し訳ありません。ただ、こちらでコメントを残す事で自身の決意としたいと思いました。



長文、失礼しました。










2013/04/07(日) 22:27:49 |URL|ラムダ #- [編集]
いつもありがとうございます。
私には1日の記事がとてもわかりやすく、体感できました。

とても久しぶりにブログを拝見したら、よりシンプルでわかりやすく、本当にありがたいと思いました。

ありがとうございます。
2013/04/07(日) 23:27:28 |URL|悟空 #v4t3jfr2 [編集]
Peace さんへ
思考はつねに、私たちを乗っ取ろうとしています。

そして乗っ取られています。

私たちは、それが乗っ取りであることに気づきたいのです。

あ、「乗っ取られていたぞ」と気づくことで、乗っ取りから、主導権を取り戻すことができます。
2013/04/08(月) 16:01:10 |URL|やまがみてるお #- [編集]
ラムダさんへ
こんにちは。

はじめまして。


> 私はかれこれ10年近く、自身の思考に煽られて呑まれて人間関係を何度も自分で壊してしまって壊した後に後悔と孤独感に苛まれると言う事を繰り返してきました。

多かれ少なかれ、誰もがこの状態におちいっています。


> 先日も同じ事を繰り返してしまい、そんな自分にウンザリしてしまっています。

> 思考は思考に過ぎないと気付く視点、これができずにすぐに自分の思考に呑まれてしまい、それができる人達を思考からの苦しみから解放された人達を羨んではそこでの自分の居心地が悪くなって自分で壊してしまう。

私たちは、これ自体が、思考であることに気づきたいわけです。

> 自分の居場所なんて無い。楽しい人は楽しい人達だけで楽しくやってればいい。自分はその中には絶対に入れない。

> 自分にはできない。彼らのようにはなれない。このまま同じ事を繰り返すだけ。

> 彼らと自分を比較して辛くなるだけならいっそのこと自分が消えればいい。

> 自分は必要とされないし、なんの能力も無い。無能な自分など存在意義など何一つない。

> もう変われた人達を見るのはウンザリだ。

> でもそれ以上にそんなどうしようもない自分にウンザリしてます。

> もう自分自身に振り回されたくない。

↑すべて思考です。

それらが、信じるに値しないものであることを観察したいわけです。


つまり、「自分の居場所なんて無い」に抵抗せず、「自分の居場所がない」ことを認め、「居場所がない」といっている思考のいうことを受け入れたら、どうなるかを観察します。

これを観察すると、「居場所なんてない」といっているわりには、「いつまででも、そこにいつづけることが可能であり、しかも状況はまったく変わらない」ことを観察することになるはずだからです。

つまり「居場所なんてない」という思考が信じるに値しなかったということが観察されるわけです。

思考がうそにすぎないことが証明されるわけです。


「楽しい人は楽しい人達だけで楽しくやってればいい。自分はその中には絶対に入れない」に抵抗せず、「その中には、絶対に入れない自分」という思考に抵抗せず、「絶対に入れない自分」を否定せずに、その状態ですごしましょう。


「思考」がこのときにラムダさんに何をやっているかというと、「仲間に入れなければたいへんなことになるぞ!」とラムダさんを脅しているわけです。

ラムダさんはそれを信じ、その未来(空想)に怯えています。


「絶対に入れない自分」を否定せずに、受け入れ、その状態ですごしてみて、「みんなの仲間に入れなかった」ら、どうなるかを観察します。


何の変化もないことを観察するでしょう。


これが「思考を観察」するです。

思考が、思考にすぎないことを観察します。

そのためには、思考に抵抗して(逃げて)いては観察されません。

思考の内容に抵抗せず、受け入れ、思考と逆の選択をしたときに、どうなるかを観察してください。


> ただ、思考との適切な距離を取りたい。思考の奴隷でいたくないという衝動の方が強いです。

これも思考ですので、これに気づきたいということを思い出してください。


このときには、「思考と距離を取りたい」「思考の奴隷でいたくない」という思考との同一化が起こっているのです。


自分のなかに、「思考と距離を取りたい」「思考の奴隷でいたくない」という無意識の思考があることに気づき、それが思考にすぎないことを観察するように注意します。

ブログはコメント欄にでも、リンクをはっておいてください。

ぜひ拝見させてください。
2013/04/08(月) 16:39:54 |URL|やまがみてるお #- [編集]
悟空さんへ
こんにちは。

> 私には1日の記事がとてもわかりやすく、体感できました。

ご感想ありがとうございます。


もっとかんたんに体感していただけるような記事を、どんどん書いていきたいです!


2013/04/08(月) 16:44:18 |URL|やまがみてるお #- [編集]
ありがとうございます。
やまがみさん、コメント返信ありがとうございます。

私が思い描いていた「観察」というのが単に「思考してるな」て終わりのようなもので、むしろ「観察」というより「監視」に近いものだったかも知れません。

無意識に浮かんできた思考を打ち消してしまっていたり・・・

それでいて、いただいた返信の中の観察には個人的には少しの勇気(?)と恐れ(?)が入り込みそうなものだとも感じました。

思考としてはそれが嘘だと見破られてしまうからこそ、そうした反応で誤魔化しを掛けるのでしょう。

一言で観察と言っても、そういうことが本来の観察なんですね。
2013/04/10(水) 07:00:46 |URL|ラムダ #- [編集]
ラムダさんへ
こんにちは。

とっても興味深いご返信、ありがとうございます。

多くの人がつまづいているのは、そこだと思います。

> 私が思い描いていた「観察」というのが単に「思考してるな」で終わりのようなもので、むしろ「観察」というより「監視」に近いものだったかも知れません。

ラムダさんのおっしゃられているように、思考は、自分の虚偽が見破られないように、観察を、「監視」にすり替え、「監視している思考」のなかへと私たちを取り込むことに成功しているのでしょう。

私たちは、じっさいの観察によって、思考のウソを見破りたいわけですが、このウソこそが、自分だと盲信していますので、このウソを見破るには、自分をうたがってかからなければなりません。

いい気持ちがしませんので、何割もの人が、私のお伝えする「観察」まで到達しません。

このため、このウソ(自分〔もちろん、ニセモノの自分なのですが、この時点では、これこそが、本物と信じているため〕)を守るために、私たちは、さまざまな理由をつけたり、ちがう方法に摩り替えたりして、この観察(実験)を無意識に避けているわけです。


私たちは、思考が空想にすぎないことを、自分の目で確認していきたいわけです。


空想とともに生きているときには、空想しか見えていません。

私たちの問題は、無意識に空想とともに生きていることにあります。

空想に気づいている視点(それまでの無意識状態から目覚めた意識的な視点という「定点」〔「監視」から「観察」へと移ることのできた視点〕)から、空想の真偽を観察してはじめて、その真偽が目撃され、じっさいに目撃することで、自分にとっての害悪は、自然に排除されるようになっていきます。

ブログ拝見しました。

どんどんと観察をされて、おなじようにつまずいておられる方たちと情報交換をされて、より思考の虚偽を見破ることのできる方法はないかを模索して、情報発信をお願いします。

思考が観察を避けるために使うトラップなども観察されて、ブログで、お伝えください。

多くの人のヒントになると思います。
2013/04/10(水) 13:35:50 |URL|やまがみてるお #- [編集]
頭の中がグルグルしてます。
ブログへのコメント並びに、コメントへの返信ありがとうございます。

一瞬、思考の狡猾さを前に躊躇してしまった自分がいます。

「こんなの観察するなんてとても無理じゃないか?」

「観察すると言う行為に同化してしまえばもはや、思考に呑まれてることすらわからないのではないか?」

「思考の罠から逃れられない。自分には無理だ。」

これらもすべて、思考なので思考による自作自演で終わってしまわないか不安も出てきます。

止めてしまえば思考の勝ち。

そう思って続けようと思っても、やっぱりそれも思考なわけで・・・・


私と同じように躓いてる方たちとどう交流すべきか頭の中が思考でグルグルしてます。
思考に囚われた状態で思考上の交流をしてもやはりそれは思考の上で弄ばれているだけではないのか?
言葉無くして思考無しなのか、思考無くして言葉なしなのか、いずれにせよ、言葉にした時点で思考の制限を受けてしまう中で、どう模索していくべきだろうか?などなど・・・・


そして一番の理由は、また「仲間」のような者を作ってしまえば同じことを繰り返しかねないぞという頭の中の声が響きます。

思考ベースで物事を決めてしまっている時点で思考との同一化から逃れられないとは思いつつも、思考上での交流はむしろ、思考を強化してしまうのではないかという気持ちもあります。

とは言え、これらの気持ち全てが頭に浮かんでいるものである時点で、やはり「思考」なわけですが・・・・

思考は常に己を混乱させ、現状維持の方へと甘い誘惑を囁いてくるようです。
2013/04/11(木) 14:25:48 |URL|ラムダ #- [編集]
ラムダさんへ
ラムダさん自身が、気づいていらっしゃるように、

> とは言え、これらの気持ち全てが頭に浮かんでいるものである時点で、やはり「思考」なわけですが・・・・

それらはすべて、思考です。

そして私たちがやりたいことは、

思考に抵抗せず、それらが思考であることに気づきつづけていきたいということだけです。

> 「こんなの観察するなんてとても無理じゃないか?」

これが思考であることに気づきます。
抵抗しません。

「はい無理です。わかりました。降参。抵抗しません。そのとおりです。でも、あなたは、思考ですね」

それで、どうなるか観察します。

状況は何か変わりますか?

その思考の背後に、「思考を観察しなければ、たいへんなことになるぞ!」という思考が隠れています。この思考が、ラムダさんを、上記のようにいって、脅迫しているのです。

この脅迫に抵抗(「思考を観察しなければ、たいへんなことになるぞ!」→たいへんなことになるなんて、たいへんだ、何とかしなくては! といって無意識の抵抗)が起こっているのですが、このことには気づいていません。

このことに私たちは気づきたいのです。

> 「観察すると言う行為に同化してしまえばもはや、思考に呑まれてることすらわからないのではないか?」

これが思考であることに気づきます。
抵抗しません。

「思考に呑みこまれていることすらわからないのですね。はい、わかりました。でも、あなたは、思考ですね」

それで、どうなるか観察します。

状況は何か変わりますか?

その思考の背後に、「思考に呑み込まれてはならない」という思考が隠れています。この思考との同一化が、ラムダさんを、上記のようにいって、脅迫しているのです。

この脅迫に抵抗(「思考に呑みこまれたら、たいへんなことになるぞ!」→たいへんなことになるなんて、たいへんだ、何とかしなくては! といって無意識の抵抗)が起こっているのですが、このことには気づいていません。

このことに私たちは気づきたいのです。

> 「思考の罠から逃れられない。自分には無理だ。」

これが思考であることに気づきます。
抵抗しません。

「私には、無理なんですね。はい、わかりました。でも、あなたは、思考ですね」

それで、どうなるか観察します。

状況は何か変わりますか?

その思考の背後に、「思考の罠から逃れられなかったら、たいへんなことになるぞ!」という思考が隠れています。この思考との同一化が、ラムダさんを、上記のようにいって、脅迫しているのです。

この脅迫に抵抗(「思考の罠から逃れられなかったら、たいへんなことになるぞ!」→たいへんなことになるなんて、たいへんだ、何とかしなくては! といって無意識の抵抗)が起こっているのですが、このことには気づいていません。

このことに私たちは気づきたいのです。

> 止めてしまえば思考の勝ち。
>
> そう思って続けようと思っても、やっぱりそれも思考なわけで・・・・

続けようと思うことは思考でも、じっさいに続けることは「思考」ではなく「行為」です。

「思考に気づく(気づいている)」という行為であり、それがじっさいにおこなわれているときは、「思考」ではなく、「思考に気づいている」状態です。

無意識の思考の脅迫が起こり、これに無意識に抵抗することによって、私たちは思考に脅されているわけですが、このことには気づいていませんでした。

このことに私たちは気づきたいのです。

じっさいに必要なのは、「『思考を観察する』・・・やうんぬんの『思考』」が必要なのではなく、無意識の思考の脅迫が起こり、これに無意識に抵抗することによって、私たちは思考に脅されている(いた)ことに、「ただ気づくこと」だけです。

「ただ気づく」という行為、と気づいている状態が必要なだけなのです。

じっさいにあるのは、これに「気づいている」のか、それとも「気づいていない」のかの状態の違いにすぎません。

> 私と同じように躓いてる方たちとどう交流すべきか頭の中が思考でグルグルしてます。

いまのところ、このことは考える必要はありません。

それは将来的に必要になったら、ただ起こります。

いまは、上記のような無意識の思考に、脅迫され、だまされ続けていることに目を向けましょう。
2013/04/12(金) 00:17:21 |URL|やまがみてるお #- [編集]
コメントへの返信ありがとうございます。

いただいた返信を拝読しまして、まっさきに浮かんだのが「サレンダ―」。

まさに「降参」という言葉が浮かびました。

思考は思考すら敵なように見せかけ、自己をけしかけ、それでいてしたたかに同一化していく。

それもこれも自身が抵抗と言う名の狡猾な思考を握ったまま離そうとしないがために逆にそこを突かれてしまっているようなそんなイメージを感じました。

ただ淡々と観察していく。その過程で何かに駆り立てられるようなものにあってもそれすらも淡々と眺めて行く。

無思考。何も考えないようにするのとは明らかに異なるものがそこにはありそうです。
2013/04/12(金) 00:24:41 |URL|ラムダ #- [編集]
ラムダさんへ
そうですね。

「無思考」は結果です。

思考の虚偽を見破ることができるようになるにつれて、思考は自然に消えていくようになります。


抵抗をすることで、私たちが思考にエネルギーを与えるからこそ、思考は長く存在することができます。

抵抗せず、ただそれがたんなる思考にすぎないことに気づきつづけていくことができるようなると、

思考はただ起こり、もともともっていたエネルギーを消費すると、自然に消えていきます。


そこに「無思考」が残ります。
2013/04/12(金) 00:57:46 |URL|やまがみてるお #- [編集]

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アーティスト
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人間にとって
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子どものころ、私たちは
自然にさとりの意識状態で
起こるできごとを
楽しんでいました。

さとりは
むつかしいもののように
感じられているかも
しれませんが
そうではありません。

さとりとは
自分にとっての
自然な状態に戻ること。

自然の、ありのままの自分を
とりもどしましょう!

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