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「体験の主体」は、ことばを発したのが自分自身でありながら、 発せられたことばを、第三者的にも気づくことができる

03-12(火)14時46分
こんにちは、やまがみてるおです。

ご訪問ありがとうございます。




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はじめてお越しの方は、「こちら」を見てね。




読者の平井ケンタさんは、

おなじ道を歩まれている仲間の方たちと話されたときに、

以下のような疑問が話題になったとご報告くださいました。


――――――――――――――――――――――――――――――

「思考に気づいていると思いながらも、

『私はいま思考に気づいている』と思考・言葉を使ってしゃべりながら

やってしまっている…

これでいいのでしょうか?


――――――――――――――――――――――――――――――


さて、いつもお話していますが、

大切なことは、「思考に気づく」ことです。




この方は、そのとき、

「『私はいま思考に気づいている』と思考・言葉を使って

しゃべりながらやってしまっている」ことに気づかれた、

ということですので、




「『私はいま思考に気づいている』と思考・言葉を使って

しゃべりながらやってしまっている」自分(同一化していた自分)と、

それに気づいた自分の、二つの視点があることに気づいたことになります。




けれどもこの「思考からの分離に気づきはじめた時点」で、

すぐに「これでいいのだろうか?」という思考との同一化が起こり、

また思考のなかに「思考からはなれた観察者の視点」は埋没し、

気づかれることなく、消失されていくというようなことが起こっています。




「『私はいま思考に気づいている』と思考・言葉を使って

しゃべりながらやってしまっている」ことに気づいたときに、

私たちは、それが思考であることに気づきます。




そうすると、

「私は思考を使っているではないか?」という思考が

私たちを目覚めから引き戻そうとするかもしれません。




けれども、私たちはこのときに、

「私は思考を使っているではないか?」という思考さえも、

「それが思考であることに気づきたい」ということです。




先の観察者さんの

「これでいいのだろうか?」さえも思考であることに気づき、

ただそれに気づきつづけていくということです。




そうして気づきつづけていくことで、

思考と、それに気づいている視点との距離がしだいにはなれていきます。


――――――――――――――――――――――――――――――

「気づいている、気づいている」と言葉が出て、

それがいい気づきをしていると理解?しているという話にもなりました。


――――――――――――――――――――――――――――――


この場合は「私は気づいている」という思考との同一化が起こっています。




気づいている状態には、

思考に気づいている、思考とは別の、自分の視点が存在します。




「思考の観察」とは、

「思考からはなれた視点」で、

「思考に気づいている自分」が存在しており、

それが、「思考」に気づいている状態のことです。




「『思考からはなれた視点』で『思考に気づいている自分』」が存在していなければ、

そこには「思考」(思考と、それに同一化した自分)しか残っていません。




「まぶたの内側から見ている視点」を探すワークをしましょう。




**********




目を閉じて、まぶたの内側に見えるものに意識を向けてください。




しばらく、そこに見えるものを観察してください。

(1分間くらい観察をしてください)




何か感じましたでしょうか。




いま何か、思考が起こっているでしょうか。




おそらく、目を閉じて、まぶたの内側に見えるものに意識を集中し、

その状態を観察すると、何も思考が起こっていないことに

気づかれませんでしたでしょうか。




もしも、思考が起こっていないことに気づかれたとしたならば、

その状態が「ノーマインド」や「無思考」と呼ばれている状態です。




それが、私のいう「体験の主体」です。




では、今度は、まぶたの内側に見えるものを

ことばにして、説明してみましょう。




私の場合は、以下のようなものになります。




「黒い幕のようなものが見えて、何か残像のようなものが、

チラチラと、うごめいているように見えます」




ではつぎに、

「黒い幕のようなものが見えて、何か残像のようなものが、

チラチラと、うごめいているように見えます」と

ことばにして発した存在、それ自体に意識を向けましょう。




その存在は、そのようなことを「ことばにして発して」おきながら、

「発せられたことば」自体に気づくことができませんでしょうか?




そしてその状態は、

先ほど体験した「ノーマインド」「無思考」状態を

体験しているときの視点ではありませんか?




ことばを発したのが自分自身でありながら、

発せられたことばを、第三者的にも気づくことができるということです。




発せられたことばを、第三者的に気づくことのできている存在、

これこそが「体験の主体」です。




「体験の主体」の視点から、思考の観察をすると、無意識の同一化から、はなれます。




「体験の主体」の視点で思考に気づき、

観察することを習慣化することができていくにつれて、

思考に巻き込まれる傾向がしだいに減少していくことを体験されるでしょう。




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コメント:

主体に気づいてるのは?
思考に気づいている主体には思考は無いと思うのですが、
その主体にさえも気づいている何かが無いとその主体にも気づけないのではないか?
その主体に気づいている何か(意識?)が大元なのではにかと考えてしまいます。
思考に一体化すれば思考しているときに思考しているとは気づけないように思います。
もし、それが正しければ主体に同一化していれば主体には気づけないのではないか?
(思考に気づいている)主体にさえも気づいているのなら、
その主体は主体ではなく、
思考に気づいた「私」で、
それは主体ではなく、
「私」と実感しているなにかで、
その「私」という感覚に気づいている「なに」かが本当の主体のような気がしています。

ちゃんと説明ができなくてすみません。
今、そこのところできっかかっています。
2013/03/12(火) 22:21:23 |URL|camesan #LkZag.iM [編集]
やまがみさん…
懇切丁寧なご説明、ありがとうございました。
思考観察仲間で、やまがみさんからの解答をシェアしながら、実践を続けて行きたいと思っています。
個人的には、思考観察に行き詰まった時には、五感からの気づきをうまく取り入れながら実践を続けるのが役に立っています。
とにかく…
思考の動きにどこまでも気づいてゆくことをこれからもマイペースでやっていこうと思っています。
2013/03/12(火) 23:40:01 |URL|平井ケンタ #- [編集]
camesanさんへ
こんにちは。
コメントありがとうございます。

悟りが起こる以前の私たちは、「主体」が思考のなかへと埋没している状態を経験しています。

思考が起こると思考との同一化が起こり、思考の内容に操作されているような状態です。

そこに、思考が起こったときにそれに気づき、それからはなれた選択肢を選べる可能性を得ることができたとしたら、それは思考からの自由を意味します。

私たちのように、意識に宿った視点の体験している、思考や出来事からはなれた視点でそれに気づけるようになることは、主体性の獲得になるのではないでしょうか。

思考との同一化などが起こっており、気づいていないときは主体は存在しえません。

すなわち、気づいている状態こそが、主体性のある状態になるということではないでしょうか。

みずからの主体性に気づいているからこそ、主体だといえるということです。


> 思考に一体化すれば思考しているときに思考しているとは気づけないように思います。

↑ 正しいです。

> もし、それが正しければ主体に同一化していれば主体には気づけないのではないか?

「思考に一体化すれば思考しているときに思考しているとは気づけないように思います」
これは正しいですが、だったらどうして、それゆえ「主体に同一化していれば主体には気づけない」になるのでしょうか。

主体とは、なにものにも同一化していない状態のことです。

便宜上(伝え合うために)私はそれを「体験の主体」ということばでお話していますが、
ことばにとらわれるなら、「主体」ということばは使わない(参考にしない)ほうがいいかもしれません。

私たちが追究したいのは、

それが主体であるのか、それとも、そうではないのか、ではなく、

「『私』と実感しているなにか」があるのか、ないのか、
あるとしたら、それは思考からはなれることができるのか、
はなれることができるのなら、思考と現実との関係をその視点で観察してみたら、
どうなるのか、をみずからの目で観察してみる必要があるのではないか、ということです。
2013/03/13(水) 02:43:47 |URL|やまがみてるお #- [編集]
平井ケンタさんへ
こんにちは。

こちらこそ、いつも貴重なご意見、ありがとうございます。

> 個人的には、思考観察に行き詰まった時には、五感からの気づきをうまく取り入れながら実践を続けるのが役に立っています。

大切なことは「悟る」ことではありません。

悟りは目標ではなく、状態です。

ただ「思考に気づいている」状態です。

「ただ思考に気づく」こと「気づきつづける」ことです。

「悟る」や「悟れない」も思考ですので。
2013/03/13(水) 03:03:57 |URL|やまがみてるお #- [編集]
やまがみさん、新しいコメント感謝です。
「悟りは状態!
思考に気づいている状態!」
『状態』という言葉が私にガツンと響きました。本当にありがとうございます。

私達は、こうして…、
言葉によって大切なことに気づくことも出来るとともに、言葉によって誤解してしまうこともありますね。
覚醒教師の立場からは、なかなか悟りがわからない私達に、悟りの状態を言葉で説明・アドバイスされるのは、やまがみさんにとってかなりのチャレンジかと思います。
そのご苦労を想像いたします。やまがみさんのご努力にただただ感謝です。
すみませんが、これからもどうぞよろしくお願いいたします(*^o^*)♪
2013/03/13(水) 08:25:11 |URL|平井ケンタ #- [編集]
私もそういう時期がありました
>けれども、私たちはこのときに、
>
>「私は思考を使っているではないか?」という思考さえも、
>
>「それが思考であることに気づきたい」ということです。

あぁっ、これこれ!!
私も「気付きに気付く」に進んだ時に、ずいぶんと苦しめられました。
思考に惑わされて、それが思考であることを忘れちゃうんですよね。(^^;)

極論を言ってしまうと…「思考の観察」においては、思考か気付き(思考か体験の主体)しか存在していないって、今の自分は実感しています。
つまり、思考か気付きか、相手にするのはそのどちらかということになりますね。
そうであるからこその「“思考”の“観察”」なのだと気付いた時は、「思考の観察」ってスゲーッ!って思いました。(^^)
(そんな単純な図式ですら、混乱して頭の中がグチャグチャになりやすいのですから…思考もある意味スゴイ? ^^;)

平井ケンタさんはじめ、コメント欄で質問される方達と やまがみさんとのやり取りには、いつも勉強させて頂いています。m(_ _)m
2013/03/13(水) 13:12:29 |URL|光龍 #- [編集]
やまがみさんのレス済みですが
>camesanさん
すでに、やまがみさんからの返答がありましたが、何かの参考になればと。

「体験の主体」って捉えどころがないので、それを思考で捉えようとすると…私の場合、疑心暗鬼になりました。(^^;)
そこから抜け出したのは「思考の観察」を続けて、以下の様に理解できたからです。

たとえ話として、次の様な説明があると思います。
部屋の中の物々である「思考」と、それを存在たらしめている部屋である「体験の主体」。
映画で言えば、映像は「思考」で、それを映し出しているスクリーンが「体験の主体」。

ここで例えられているのは、表れている「思考」と、その背景である「体験の主体」ですが。
気付くためには、その両方を認識できる第三者…
部屋であれば部屋の住人、映画であれば観客がいなければならないのではないかという事を、疑問に思われたのでしょうか?

この部屋の住人や、映画の観客でさえ、思考の一部だと私は見なしています。
(それこそが『私』という根深い概念、思考イメージそのものであると。)

そして、「体験の主体」って別名「気付き」ですよね?

部屋の別名が気付きで、スクリーンの別名も気付き。
だとしたら、部屋は部屋の中の物々にも気付き、部屋の空間そのものにも気付けるし、
スクリーンは映し出されている映像にも気付いて、スクリーンである存在にも気付ける。
そこに、第三者は必要ないんです。(^^;)

でも、思考はそれが理解できない。
ここに、思考の限界があります。
だから、捉えられないものを、何とかして捉えようとして、思考イメージという概念をでっち上げるんです。(^^;)

やまがみさんが、記事やレスで何度も繰り返していらっしゃる通り、「それすらも思考である」と見抜いて、その概念も観察に利用しちゃいましょう。(^^)
2013/03/13(水) 13:15:46 |URL|光龍 #- [編集]
やまがみさん、光龍さんご返答ありがとうございます。

主体と訊くと、主体ってなんだと思考が働いてしまうんですね。

思考が起こっていることに唯気づいている、
その状態を続けるだけなんですね。

思考を観察することに拘ってしまうと、
またそこに思考が起こってしまうみたいです。

思考は起こるままにして、
何もしない、
ただ気づいているだけがいいみたいですね。

その気づきに気づけると言うことは・・・・・、
ってなんてしまうのは思考なんですね。

やっと腑に落ちた気がします。

ありがとうございました。


「「いまここ」にさとりを選択する生きかた」を読ませていただきました。
この思考を観察することを続けていけば、
宇宙に繋がっている実感を感じられるようになるんですか?
2013/03/13(水) 22:59:56 |URL|camesan #LkZag.iM [編集]
平井ケンタさんへ
こんにちは。

> 「悟りは状態!
> 思考に気づいている状態!」
> 『状態』という言葉が私にガツンと響きました。本当にありがとうございます。

これは本当に重要なポイントなのですよね。

> 私達は、こうして…、
> 言葉によって大切なことに気づくことも出来るとともに、言葉によって誤解してしまうこともありますね。

ほんとうですね。
ことばによって誤解が生じる。

注意して伝え合っていかなければいけませんね。

> 覚醒教師の立場からは、なかなか悟りがわからない私達に、悟りの状態を言葉で説明・アドバイスされるのは、やまがみさんにとってかなりのチャレンジかと思います。

ありがとうございます。

人類にさとりを!

↑ をスローガンに、つづけていきたいと思います。
2013/03/14(木) 01:02:23 |URL|やまがみてるお #- [編集]
光龍さんへ
> 私も「気付きに気付く」に進んだ時に、ずいぶんと苦しめられました。
> 思考に惑わされて、それが思考であることを忘れちゃうんですよね。(^^;)

おそらく、たくさんの人がこれに苦しめられるのではないかと思います。

> 極論を言ってしまうと…「思考の観察」においては、思考か気付き(思考か体験の主体)しか存在していないって、今の自分は実感しています。

結局は、思考に気づいていなければ(気づいている視点がなければ)、思考の状態といっていいのかもしれませんね。

> そうであるからこその「“思考”の“観察”」なのだと気付いた時は、「思考の観察」ってスゲーッ!って思いました。(^^)
> (そんな単純な図式ですら、混乱して頭の中がグチャグチャになりやすいのですから…思考もある意味スゴイ? ^^;)

ほんとうに、思考もスゴイ! ですよね(笑)← 笑いごとではありませんが・・・(笑)

コメント欄の対話では、私も本当に学ばさせていただいていると思っています。
2013/03/14(木) 01:08:40 |URL|やまがみてるお #- [編集]
camesanさんへ
こんにちは。

> 思考を観察することに拘ってしまうと、
> またそこに思考が起こってしまうみたいです。

このことには、本当に注意をする必要があります。

現状の私たちには、すぐに思考に同一化する習慣が身についているからです。


ですから、「気づくこと」「思いだすこと」を意識します。

思いだしたら、オッケーです。

忘れても、それは習慣なのでオッケーです。


けれども、「気づくこと」「思いだすこと」を意識します。

そうしたら、しばらくののちに、ふたたび思いだすでしょう。

思い出したら、オッケーです。

忘れたら、思いだすことを思いだします。


思考に気づいたら、

> 思考は起こるままにして、
> 何もしない、
> ただ気づいているだけがいいみたいですね。

にします。


> その気づきに気づけると言うことは・・・・・、
> ってなんてしまうのは思考なんですね。

それは思考です。


そういうときには、それが思考であることに気づき、ただ観察をします。


> 「「いまここ」にさとりを選択する生きかた」を読ませていただきました。
> この思考を観察することを続けていけば、
> 宇宙に繋がっている実感を感じられるようになるんですか?

思考の観察をつづけると、思考に気づいている意識状態が安定化していきます。

やがて、それが定着すると悟りです。

悟りが起こると、ますます、思考の部分の自分がいなくなっていきます。

やがて、思考の部分の自分がいなくなり、そこに残った感覚が、私の感覚では「普遍なるもの」と感じます。


2013/03/14(木) 01:47:03 |URL|やまがみてるお #- [編集]
初めまして。いつも拝読しております。今回の記事とコメント、とても興味深く感じ、伺いたいことがあります。

本当の愛と執着の違いについてです。思考に振り回されていない状態で自然に溢れてくるものは、執着でなく、本当の愛と言えますか?

「悟る」や「悟れない」も思考ですので。 とありましたが、執着しないでおきたいと拘ることも思考でしょうか。

執着したくないので観察し手放した思いが、穏やかな状態になっても自然に心に起きます。これもまた観察していればいいのでしょうか。




2013/03/15(金) 10:36:34 |URL|mocha #- [編集]
mochaさんへ
こんにちは。
初コメントありがとうございます。

> 本当の愛と執着の違いについてです。思考に振り回されていない状態で自然に溢れてくるものは、執着でなく、本当の愛と言えますか?

それが、対象者(対象物)に対して、見返りを求めていなかったら、本当の愛だと思います。

> 「悟る」や「悟れない」も思考ですので。 とありましたが、執着しないでおきたいと拘ることも思考でしょうか。

「執着しないでおきたい」というのも思考であり、執着です。

もしかしたら、それ以前に、「執着してはいけない」という思考があるのかもしれません。

> 執着したくないので観察し手放した思いが、穏やかな状態になっても自然に心に起きます。これもまた観察していればいいのでしょうか。

「執着したくない」というもの思考ですので、その場合は「執着したくない」(「執着しないでおきたい」や「執着してはいけない」も含めて)と思考していることに気づき、その内容と変えようとせず、止めようともせずに、観察します。

その思考が自分のなかにあることを否定せず、抵抗せず、認めて観察すると、それは気づかれ、それから、それのもっていた力(それに対する執着)がなくなります。

> 執着したくないので観察し手放した思いが、穏やかな状態になっても自然に心に起きます。

mochaさんが「執着したくない」と感じているかぎり、その思いは手放されていませんので、しばらくの後に「自然に心に起きます」。

自分が「執着したくない」(「執着しないでおきたい」や「執着してはならない」)と思考している(感じている)ことに気づき、それを変えようとしたり(「執着しないでおきたい」「執着してはならない」)、止めよう
としたりせずに、ただ「自分が執着していることに」気づきましょう。

「自分が執着していること」気づき、その内容を変えようとせず、止めようとせず、観察しつづけると、その思考は自然に消えていきます。

抵抗(「執着したいくない」「執着しないでおきたい」「執着してはならない」)することで、いつまでも残ることになります。

これが、気づくということです。
2013/03/19(火) 00:32:29 |URL|やまがみてるお #- [編集]
やまがみさま

丁寧にお答えいただき感謝します。

半年ほど思考を観察しています。別の記事でお話されいたように、楽なことから始めました。試行錯誤しつつもそれなりに順調でしたが、愛を表現したり受け取るという、私にとって一番根深いところが現れてきて今回の質問に至りました。

やまがみさんのお返事を読んで、執着しないでおきたい、執着はいけない、という思考があったことに気がつき驚きました。お返事を読みながら広がりを感じ、背中や鎖骨あたりにどっと今までにない安堵感を感じました。大事な気づきだったのだと思います。

やまがみさんの説明はとてもわかりやすいので、改めて聞いてみたいのですが、「抵抗」と「ゆだねる」を、別の形で説明していただけませんか?

今回は思考の抵抗だと気がつかず、執着したくない、と執着しているとは気がつきませんでした。静かなる執拗な抵抗です。一番根深いところの愛の表現と受容を観察でき始めてきて、自我が存続したいため本当に心が望むことを利用し、自分に疑いを向けるように話しかけてきているように感じます。

思考だと分かりにくい場合は、難しいですね。心が望む本当の思いか、思考の影響か、分からなくなっていました。今回、やまがみさんに質問しなければ、迂闊に引き返してしまうところでした。ありがとうございます。
2013/03/20(水) 11:34:33 |URL|mocha #- [編集]
mochaさんへ
> 半年ほど思考を観察しています。別の記事でお話されいたように、楽なことから始めました。試行錯誤しつつもそれなりに順調でしたが、愛を表現したり受け取るという、私にとって一番根深いところが現れてきて今回の質問に至りました。

> やまがみさんのお返事を読んで、執着しないでおきたい、執着はいけない、という思考があったことに気がつき驚きました。お返事を読みながら広がりを感じ、背中や鎖骨あたりにどっと今までにない安堵感を感じました。大事な気づきだったのだと思います。

おそらく、多くの人がmochaさんとおなじように、「無意識の思考」、「潜在意識下の思考」に苦しめられており、このことにすら気づいていない可能性があると思います。

> やまがみさんの説明はとてもわかりやすいので、改めて聞いてみたいのですが、「抵抗」と「ゆだねる」を、別の形で説明していただけませんか?

では、あとで、試みてみます。

> 今回は思考の抵抗だと気がつかず、執着したくない、と執着しているとは気がつきませんでした。静かなる執拗な抵抗です。一番根深いところの愛の表現と受容を観察でき始めてきて、自我が存続したいため本当に心が望むことを利用し、自分に疑いを向けるように話しかけてきているように感じます。

自我は、私たちがその虚偽に目覚めはじめると、個人にとってもっとも根深く執着している部分を刺激して、ふたたびその虚偽のなかへと引き戻すことに成功します。

> 思考だと分かりにくい場合は、難しいですね。

これは普段、私たちが思考とともに生きる習慣が強いから起こっています。
思考を疑うことなく、同一化する傾向が習慣化されているからです。

> 心が望む本当の思いか、思考の影響か、分からなくなっていました。

これが読みとれるようになるには、習練が必要です。

とりあえず、思考からはなれた視点の定着後の話になります。

思考が虚偽であることが見破られたあと、感じることに開いていくことによって、これがわかるようになります。


「抵抗」と「ゆだねる」の違いは、

「ゆだねる」には、いっさいの「抵抗がない」ということになると思います。


すべてに対して「イエス」からはじまります。


けれども、「イエス」「イエス」「イエス」わかりました。私が犠牲になればいいんでしょ!

というような「イエス」ではありません。


すべての出来事に対して、「こんなはずではない」や「こうあるべき」などの抵抗はなく、

わたしました。そういう出来事が起こったのですね。「イエス」。そこから、自分はどうするか? 

を感じることに開きます。


喜怒哀楽も悪いものではありません。

その時点で、喜怒哀楽を感じたら、それを感じます。

感じつくしたといえるまで感じつくせると、理想です。


そこまで感じつくしたあと、では自分はどうするか? に意識を向けます。


そうして、自分の感じることを行動に移します。


これが、「抵抗のないゆだね」です。


それ以外は「抵抗」です。


そのときに体験した出来事に「イエス」がなければ「抵抗」です。

私が犠牲になればいいんでしょ! があれば、それは「抵抗」です。
2013/03/21(木) 00:17:23 |URL|やまがみてるお #- [編集]

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Author:やまがみてるお
アーティスト
誰でも「悟り」プロジェクト主催

さとりとは
人間にとって
自然な意識状態です。

子どものころ、私たちは
自然にさとりの意識状態で
起こるできごとを
楽しんでいました。

さとりは
むつかしいもののように
感じられているかも
しれませんが
そうではありません。

さとりとは
自分にとっての
自然な状態に戻ること。

自然の、ありのままの自分を
とりもどしましょう!

※現在、コメントへの
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 お答えさせていただくことも
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