「あるがままに」泣き寝入りしない
02-09(木)17時00分
こんにちは、やまがみてるおです。
ご訪問ありがとうございます。
はじめてお越しの方は、「こちら」をご覧ください。
私たちが対話している「あるがままの受容」は、
誤解を招きかねないテーマです。
阿部さんのブログ「いまここ」においても、
獣医師の、ある扱いによって大切なペット(うさぎ)を亡くされた方が、
この医療に対して告訴を検討することは
自我に振り回されている行為になるのかどうかが議論されていました。
(「次の旅立ち」コメント欄、「エゴ」参照)
我が家にも長く生活をともにしてきた愛犬がいますので、
この方の気持ちがよくわかります。
悟りとは、究極的には個別の自分というものは存在しておらず、
その背後に存在する完全性こそが自分の真実であることを
体験的に理解することです。
そしてこの完全性が自分の真実であることがわかってくることによって、
必然的に個別の自分(個別性)に対する価値や執着心が自然に減少していきます。
このため、わが身に降りかかった災難に対しても、
より冷静に対処できるようになります。
けれどもこれは、個別の自分の権利(社会的権利)が
消滅(減少)することを意味するのではありません。
この点を誤解しないようにしたいものです。
自我の抵抗こそが、私たちを困難に導きくことはすでに学びました。
(「神の子になる方法」参照)。
「あるがままの受容」にゆだねていくと、
私たちは、自分の人生がより容易に展開していくことを目撃します。
これが「あるがままの受容」が私たちの人生にもたらす利点です。
けれどもここに落とし穴があります。
自我は、この利点を利用して、
あるがままの受容を私たちに押しつけようとしてくるのです。
これが感情の抑圧につながります。
私たちは、あるがままを受け入れるように、
自分の感情をコントロールしようとします。
けれども感情とは、じっさいには私たちには
コントロールできるものではありません。
起こる感情は純粋なものであり、悪いものではなく、
たんなる反応だからです。
起こる感情を起こるがままに感じること、
これも含めて「あるがまま」です。
起こる感情を抑圧しようとすることは、
感情の「あるがまま」に抵抗していることになります。
スピリチュアルな修行によって、
感情のコントロールができるようになると
考えているかたもおられるかもしれませんが、
これは誤解です。
悟りにおいて私たちは、
感情とは自然に起こるものであること、
そして自然に消えていくものであることを
体験的に理解します。
これによって私たちは、
ただ起こり消えていく感情を
自然に受け流すことができるようになります。
このため私たちは、
起こった感情に巻き込まれることがしだいに少なくなっていきます。
こうして私たちは巻き込まれることなく、
起こった感情を冷静に、そして自然に表現できるようになります。
もしも医療ミスを経験されたとしたら、
その経験に対して感じることを大切にして、
つぎの行動を選択することが求められているのだと私は考えます。
自分の子どもが危険なところに近づいて行った場合、
私たちはそれを止めようとします。
本当の愛情とは、すべてをただ許すことではありません。
医療に対して、甘い部分を持ちつづけて
その仕事に従事していくことは、
その獣医師の方の今後の人生にとって、
危険なことではないでしょうか。
大切なペットに対する医療ミスを経験された方の
感じるままの行動(もしかしたら告訴、
それとも告訴までは至らなかったとしても、相談や意見)が、
その獣医師の方の人生にとって役に立つ(学びにつながる)
行為である可能性があることを忘れてはならないと私は思います。
そしてこのために、
大切なペットが自分の命を犠牲にしてまでこのことを
教えてくれていた可能性があるのだとしたら?
もちろん、大切なペットを亡くされた方の
悲しみは痛いほどわかります。
けれども、宇宙はここまで完璧にできている
可能性があるのかもしれません。
だからこそ、あるがまま(感じるまま)にゆだねることが
大切であると私は感じます。

ご訪問ありがとうございます。
はじめてお越しの方は、「こちら」をご覧ください。
私たちが対話している「あるがままの受容」は、
誤解を招きかねないテーマです。
阿部さんのブログ「いまここ」においても、
獣医師の、ある扱いによって大切なペット(うさぎ)を亡くされた方が、
この医療に対して告訴を検討することは
自我に振り回されている行為になるのかどうかが議論されていました。
(「次の旅立ち」コメント欄、「エゴ」参照)
我が家にも長く生活をともにしてきた愛犬がいますので、
この方の気持ちがよくわかります。
悟りとは、究極的には個別の自分というものは存在しておらず、
その背後に存在する完全性こそが自分の真実であることを
体験的に理解することです。
そしてこの完全性が自分の真実であることがわかってくることによって、
必然的に個別の自分(個別性)に対する価値や執着心が自然に減少していきます。
このため、わが身に降りかかった災難に対しても、
より冷静に対処できるようになります。
けれどもこれは、個別の自分の権利(社会的権利)が
消滅(減少)することを意味するのではありません。
この点を誤解しないようにしたいものです。
自我の抵抗こそが、私たちを困難に導きくことはすでに学びました。
(「神の子になる方法」参照)。
「あるがままの受容」にゆだねていくと、
私たちは、自分の人生がより容易に展開していくことを目撃します。
これが「あるがままの受容」が私たちの人生にもたらす利点です。
けれどもここに落とし穴があります。
自我は、この利点を利用して、
あるがままの受容を私たちに押しつけようとしてくるのです。
これが感情の抑圧につながります。
私たちは、あるがままを受け入れるように、
自分の感情をコントロールしようとします。
けれども感情とは、じっさいには私たちには
コントロールできるものではありません。
起こる感情は純粋なものであり、悪いものではなく、
たんなる反応だからです。
起こる感情を起こるがままに感じること、
これも含めて「あるがまま」です。
起こる感情を抑圧しようとすることは、
感情の「あるがまま」に抵抗していることになります。
スピリチュアルな修行によって、
感情のコントロールができるようになると
考えているかたもおられるかもしれませんが、
これは誤解です。
悟りにおいて私たちは、
感情とは自然に起こるものであること、
そして自然に消えていくものであることを
体験的に理解します。
これによって私たちは、
ただ起こり消えていく感情を
自然に受け流すことができるようになります。
このため私たちは、
起こった感情に巻き込まれることがしだいに少なくなっていきます。
こうして私たちは巻き込まれることなく、
起こった感情を冷静に、そして自然に表現できるようになります。
もしも医療ミスを経験されたとしたら、
その経験に対して感じることを大切にして、
つぎの行動を選択することが求められているのだと私は考えます。
自分の子どもが危険なところに近づいて行った場合、
私たちはそれを止めようとします。
本当の愛情とは、すべてをただ許すことではありません。
医療に対して、甘い部分を持ちつづけて
その仕事に従事していくことは、
その獣医師の方の今後の人生にとって、
危険なことではないでしょうか。
大切なペットに対する医療ミスを経験された方の
感じるままの行動(もしかしたら告訴、
それとも告訴までは至らなかったとしても、相談や意見)が、
その獣医師の方の人生にとって役に立つ(学びにつながる)
行為である可能性があることを忘れてはならないと私は思います。
そしてこのために、
大切なペットが自分の命を犠牲にしてまでこのことを
教えてくれていた可能性があるのだとしたら?
もちろん、大切なペットを亡くされた方の
悲しみは痛いほどわかります。
けれども、宇宙はここまで完璧にできている
可能性があるのかもしれません。
だからこそ、あるがまま(感じるまま)にゆだねることが
大切であると私は感じます。
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